
祖父は、京都、西陣に住み込んで、友禅を学び、
それから東京で、着物の模様絵師として
仕事をしていた。
妻に、娘たちに、それぞれ絵を描き、
着物をプレゼントした。
これは、そのうちの母のもの。

着物の絵に手が込んでいるかは、
その繊細さや、グラデーションでわかる、
と母は言っていた。

祖父に絵を習い、日本画家になった叔母は、
最近は、色を厚くぬらないと売れないけど、
本来は、繊細な濃淡を描くべき、と言っていた。

それしても、数十年前に描かれた
この着物の鮮やかさと繊細さと生命力は、なんだろう。

わたしにとっての祖父のイメージは、
弱ったり、困ったりした「お年寄り」ではない。

ぐずぐず迷走している今の私よりも、ずっと「生きている」。
ずっとずっと先で、ばちばちと生命の火を燃やしながら
鮮やかに、繊細に。

わたしは、まだまだだ、と思う。
そう思えるのは、唯一幸せなことだと思う。

それは、庭一面の花や樹を育てていた祖母にも思う。
ぜんぜんまだまだだ。
その人が、今、存在しているかどうかに関わらず、
悲しい、淋しい、という感情に関わらず、
また、作品を残す残さないに関わらず、
その人の、人間の、存在、能力、生命としての運動、その軌跡、
というのは、圧倒的だ。
生きているか亡くなっているか
老いぼれているか、とは、まったく関係なく、
わたしは、全然ぜんぜんまだまだだ、という
幸福な焦りのみを感じる。
なぜなら、祖父は亡くなっているのに、
こんなにも「生きている」から。














































