曇った空のしたで、正解もわからず、突き進む。*「宇宙戦争」のこの解説、凄い。*
宇宙戦争、さっきTVで観終わったあと、
この解説を読んで、圧倒される。
台所で洗い物をしてくれていた妻に、
読んで聞かせたら、特にラストの解釈で、
「ぞっとしたっ」と言っていた。
以下引用させていただきます。(ネタバレを含みます)
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■宇宙戦争Add Star
matterhorn2005-07-04
予告編やCMスポットと本編との枠組みがあまりにも食い違っている、という『スチームボーイ』以来の不幸な例として盛り上がっているのがスピルバーグの『宇宙戦争』で、「そのとき父は愛する家族を守ろうと思った」というCMのナレーションは確かに間違ってはいないけれど、その後に「しかし・・・」と続けるべき部分こそが映画では重要なのであって、トム・クルーズが家族とか地球を守る映画だなんて思って観に行くと、『スチームボーイ』を科学批判のヒューマンアドベンチャーだと思って観に行くくらいその落差に戸惑う。スピルバーグも大友克洋もけっしてそんなお茶の間サイズの人じゃない。むしろダコタ・ファニングのひきつけを起こしそうな表情目当てで劇場に行った人だけ正解にたどり着けたというなんとも痛快な映画だった。
『宇宙戦争』は明瞭に「911以降」の映画で、道に落ちたビデオカメラのモニターに映った映像のカットによって惨劇が開始されるという演出が、なによりこの映画がスピルバーグ流の「911への宣戦布告」であることを物語っている。テロ以降のパニック映画にとってどんな先行映画より意識すべきなのは、間違いなくあの崩れ落ちる貿易センタービルの映像であって、あの映像に勝負し、あの映像を乗り越えるという覚悟がなければパニック映画なんて撮ってはいけないのだ。スピルバーグは道に落ちたビデオカメラのモニターから視線を転じ、そのフレームの外の強度を容赦なく描こうとする。そこにはくだらない言説に彩られた物語の誘惑とか解釈なんかが入り込む余地のない陰惨極まる強度そのものだ。物語や解釈に頼っていては、あの「911映像」を強化しこそすれ、けっして乗り越えることなど出来ない。パニック映画に課された使命は、そんな文芸作品の甘っちょろい感傷ではなく、それ以上の恐怖と陰惨さを描くことで「911」をすら忘却させることに他ならない。
■最悪の現実と最高のトム・クルーズAdd Star
matterhorn2005-07-04
「自分より頑張っている人に頑張れなんて言えないよ」とは映画『耳をすませば』で主人公の雫が友人に漏らす一言だが、この映画のトム・クルーズを観ながら思うのは、やっぱりこの一言である。どこかにたどり着くべき正解があって、その希望の光射す方向に近づき、また遠ざかる様にハラハラするのが、スリリングの鉄則だとすれば、この映画には最後の最後まで「到達すべき正解」を予感させる情報が主人公にも、また観客にも与えられない。つまり観客である僕らは画面の中で逃げ惑う彼らの正解をスクリーンの外において知りつつ「頑張れ」と呼び掛けうる傲慢な見物人ではなく、どうすれば彼らが助かり幸福になるのか、なんら有効な手助けを与えてやる事が出来ない無力な傍観者であることを強いられるのだ。
そこでは、息子と離れてしまうことが良かったのかどうか、船に乗ってボストンへ向かうことが良かったのかどうか、確実にその是非を判断すべき材料が一向に与えられぬまま、観客はただ生の方向に突き進むトム・クルーズの締まりのない引きつった表情を眺めるしかない。そのような絶望的な状況下においてトム・クルーズの表情の締まりのなさは否応無く「自分より頑張っている者」としての崇高な輝きを帯び始める。惨殺の現場からほとんど唯一のように逃げ延びることに成功し、火だるまになった電車がゴーっと通り過ぎるのをただ眺めるしか無いとき、そんな彼を眺める僕らの精神は彼の半開きの口元に限りなく近づいていることに気づく。諦めて居直る事でも、無闇に希望を持つことでもなく、ただテンパるしかないことで特権的にトム・クルーズは、観客である僕らと「主人公/観客」の関係を取り結びうるのだ。そこには最悪の現実を介して築かれたトム・クルーズと観客との最高の関係がある。
■ああ無情なるエンディング(ネタバレ含)Add Star
matterhorn2005-07-04
取ってつけたようなナレーションによる説明で始まった映画は、取ってつけたような解説で終わる。もしこのオチや解説が物語の放棄に思えるとしたら、逆にそういう人間は幸福だと思う。この映画における惨劇は最初から最後までほぼ一貫して曇り空の元で展開する。それは、晴天のもと行われた『ガメラ』でのギャオスとの戦いより、吹雪の中行われた『ガメラ2』におけるレギオンとの戦いがどれだけ真に迫る強度をたたえていたかを理解した上での怪獣映画史的教訓が踏襲された演出のようにも思える。しかし、物語のラストシーン。それまでの曇天と一転して空があまりにも不自然に晴れ渡っていたのは何故か? そして辿り着いたボストンの妻の実家が、あまりにも美しく一切の破壊を許していなかったのは何故か。そして何より、生き別れて火の海に消えた息子がほとんど無傷で彼の到着を出迎えたのは・・・。
そう考えた時、あのエンディングを素直に現実であると考え、その伏線の無さやあっけなさに杓子定規な憤慨を覚える人間は、あのラストがたたえる不穏なまでの不気味さを軒並み無視することが出来るあまりに幸福な人間だと云えるだろう。あそこが天国であり、既に死んでしまった妻の家族と息子が、トムと娘を迎えに玄関まで来ているように見えてしまうのは、けっして悲観的すぎる解釈ではあるまい。あの時、トムが玄関から離れて家族を見ていたのは、トムが既に人を殺してしまって素直に天国に行けなかったからではないのか? そして娘は父よりも先に死に、父親は未だトライポッドの籠中あるいは赤茶けた荒野で生死の境を彷徨っているからでは? 妻が放つ「ありがとう」の一言は、無事娘を送り届けたことではなくて、自らの殺人や飛行機事故やトライポッドによる惨劇を最後まで見せようとしなかったトムの父親としての心遣いに対して向けられたものだったのではないか。
ハリウッドは勿論それが夢オチであることをバラさないけれど、僕は映画を見終わった後、しばらく口がきけなかったのだ。あまりに凄いものを見てしまった気がして。と、書いてる今でも思い出しながら少し震えが来るほどだ。解釈は如何様にも出来ると思う。例えばあのトライポッドを国家とか権力とかのメタファーで読むことも出来るし、圧倒的な敵を前にした人間という繋がりで太平洋戦争時の日本人を思い起こしても良いと思う。でもそれは完全な後付けのものであって、見ている最中は只ホントに怖くて悲しくてやるせなくて仕方がなかったのだ。これほど「強い映画」はそうそうないんじゃないか、と断言してみたい。
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たしかに、ラスト、不自然なほど空は晴れていた
たしかに、ボストンの街は、不自然なほど破壊されていなかった。
たしかに、ボストンの妻や、家族は、みんな無事で、
途中、戦火の中、はぐれた息子は、なぜか都合良く、
先に、ボストンの家にいた。
そして、トムクルーズのお父さんは、離れたところから、
ボストンの家族を呆然と見ていた。
そうか、死んでいるからなのか。
青い空は、天国の予告なんだ。
スピルバーグは、やっぱり暗い。
AIもやりきれなかったし、
グレムリンも、オーブンに入れちゃうし。。
そして、われわれは、
曇った空のしたで、正解もわからず、突き進むのものなんだな。
あのわけのわからなくなった「輝く」トムクルーズみたいに。
スピルバーグは、おそらく、暗いのではなくて、
リアルなんだろうな。
「宇宙戦争」。
火だるまになって、踏切を通りすぎる列車の映像と、
ティムロビンスの、
「目をみひらいて、頭をフル回転させた奴だけが生き残れる」
っていうセリフと、
どうしようもない、ヒーローではないトムクルーズが
とてもよかった。
すくなくとも、わたしの現実には、届いた。
生きているということは、曇り空の下にいることで、
正解の見つけづらいもので、
安易な青空や、安易な再会は、死、なんだ。
スピ先生。よくわかりました。がんばります。