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この道 ふるさとへ続いても 僕は 行かないさ

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タワレコ渋谷で「バイヤーイチオシ!!!」
っていうCDを視聴した。

「ジブリジャズ」

ジブリの音楽をジャズでっていう企画もの、

なんだけど、なにこれ?すごくいいじゃん???

とくに、冒頭の君をのせてと海の見える街。

そして、カントリーロード。


カントリーロードの曲のたちあがりが、
ぐーーーーーんとひきこまれて、
たかまりきって、サビに入る瞬間、

視聴のヘッドフォンを耳にあてながら、
空をあおいで、大声で、サビを歌いそうになった☆


棚卸しのタワレコの店員さんが、前を通ったのでやめたけど。



この曲の、これをうったてる、kuwahara yurikoさんっていう人の声は、
企画ものCDの領域を越えているのでは。。
すごくうねりと情念があって、つきぬけてる。



youtubeで探して紹介しようとおもったけどなくて残念。

大事な友人にあげるCD-Rには、絶対入れよう。



これを聴いて気づいた。
この曲のこの訳詞は、ほんとにいい。



ひとりぼっち 恐れずに
生きようと 夢見てた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこ

歩き疲れ たたずむと
浮かんで来る ふるさとの街
丘をまく 坂の道
そんな僕を 叱ってる

どんな挫(クジ)けそうな 時だって
決して 涙は見せないで
心なしか 歩調が速くなってく
思い出 消すため

カントリー・ロード
この道 ふるさとへ続いても
僕は 行かないさ
行けない カントリー・ロード
カントリー・ロード
明日は いつもの僕さ
帰りたい 帰れない
さよなら カントリー・ロード






このうたがながれる、耳をすませば、という映画をつくった
近藤喜文さんについて、
こちらから転載させていただきます。




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東京・新宿駅から西へ延びる京王線の特急電車に24分乗ると、聖蹟(せいせき)桜ケ丘駅(東京都多摩市)に到着する。駅前で、若い女性2人が映画のモデル地を示す看板を写真に収めていた。「耳をすませば」のファンのサイトに「聖蹟桜ケ丘に行った」という書き込みが、公開から11年たっても見受けられる。

 「中学生のラブストーリーだからと、映画関係者の期待は薄かった」とプロデューサー鈴木敏夫さん(58)は明かす。夏休み公開が危ぶまれ、交渉を重ねて7月にした。ふたを開けると、95年の邦画収入1位になった。

 この映画が初にして最後の監督作品となった近藤喜文(1950〜98)が四半世紀前、脚本と絵コンテを担当した宮崎駿(はやお)さん(65)に「少年と少女のさわやかな出会いの作品を作りたい」と語ったことがきっかけだった。約10年後、宮崎さんが「こういうの好きだろう」と原作を近藤に手渡し、映画作りが始まった。

 時代はバブル経済が崩壊し、リストラが進み、先を見通せなくなっていた。宮崎さんは雑誌の取材に「生きることに肯定的じゃないと大問題に立ち向かえない。簡単にニヒリズムの餌食になる」と語った。近藤は長男が1年前に高校受験をした経験から、受験生一人ひとりにドラマがあることに気づいていた。「世の中が悪いとか学校が悪いとか大人のせいにして反発するのではなく、自分の問題として考える子どもを描きたい」と考えていた。

 物語は、バイオリン職人になると決めた聖司に、どのように生きるのかについて悩む雫を対比させた。不治の病や親の反対によって燃え上がるのではなく、自らが障壁という恋愛ドラマだ。舞台は、宮崎さんや近藤がかつて働いたアニメプロダクションがある聖蹟桜ケ丘駅周辺。冒頭の丘は、宮崎さんが仕事を終え、夜が明けたなか車で帰る時に新宿副都心を見た所だ。実際の町並みを配してリアルさを出した。

 原作者の柊(ひいらぎ)あおいさん(43)は、人のつながりとしての異性関係を描く物語を目指した。だが、恋愛が中心ではなかったためか、月刊誌の連載は4回で打ち切りに。「未消化だったことが、映画で形になった」

 等身大の中学生が生き方を懸命に考え、ふたりで未来に歩み出す映画は、それぞれ子どもを持つ宮崎さん、鈴木さん、近藤の視点から生まれた。聖司や雫を温かく見守る老人・西司朗と重なる。そして、思春期の子どもたちへの父親たちからのエールでもある。

アニメに献身 命むしばむ

 「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」は、鈴木敏夫さんの娘麻実子さんが訳詞した。当時19歳と年齢が月島雫に近いことから頼まれ、宮崎駿さんが補作した。歌詞は「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見ていた」だが、麻実子さんの詞は「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛びだした」だった。

 これを巡って、近藤喜文と宮崎さんが対立。近藤は麻実子さん訳を支持したが、宮崎さんの変更案が通った。

 映画の宣伝のため出演したラジオ番組で、近藤は麻実子さんの歌詞について触れ、「漫画家になろうと、家出するように東京に出てきた。本当に何も持っていなかった」と涙を流して語った。口数が少なく、いつも心の中を見せなかったが、鈴木さんは「内にある熱いものが噴き出した」とみる。

♪  ♪  ♪

 近藤は1950年、今の新潟県五泉市で生まれた。高校2年の時には、漫画かアニメーションにかかわる仕事に就こうと考えていた。妻浩子さん(67)によると、新聞紙をハサミで切る切り絵に夢中になり、児童書などを読み、アニメーションへの夢を膨らませた。

 高校卒業後、半年ほどアニメーションの専門学校に通い、アニメのプロダクションに入った。原画作りに没頭。やせた長身の長い足を折り曲げ、前かがみで机に向かった。労働条件の改善などを求めて日本映画放送産業労働組合の活動に参加し、そこで同じプロダクションの彩色担当だった浩子さんと知り合い、74年に結婚した。その後、いくつかのアニメプロダクションを経て87年にスタジオジブリに移籍した。

 「耳をすませば」の成功は、近藤のアニメーション技量によるところが大きい。

 「巨人の星」「ルパン三世」「ど根性ガエル」「未来少年コナン」「赤毛のアン」、スタジオジブリでは「火垂(ほた)るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」「紅の豚」……。近藤がかかわった作品のいくつかは、リアルな描写によって登場人物の性格付けに影響を与えるほど研ぎ澄まされていた。

 雫が猫に話しかけようと座るシーンがある。鈴木さんは、近藤と宮崎さんの違いが表れた場面だという。雫はスカートを押さえて座ったが、宮崎さんだったら風が舞い下着が見えていたという。「人の目を意識する、知的で品のいい雫となった」

 映像研究家の叶精二さん(41)は、群衆の描き方に近藤のこまやかさを見てとる。エンディングで、朝から夕方まで道行く人をとらえた。犬を散歩させる女性、登下校する中学生……と、どこかで出会った光景が流れる。「市井に生きる一人ひとりのドラマを大事にした表れ」と話す。そんな近藤を「アニメ映画監督の高畑勲さん、宮崎さんが最も信頼を寄せ、ふたりの後継者だった」と評価する。

♪  ♪  ♪

 自宅のある団地にバスを走らせたり、ふるさとと呼べる団地にしようと夏祭りを住民と一緒に催したり。近藤は地域活動にも熱心だった。仕事の合間に子どもたちを絵にするために出かけた。「本当に描きたいものを見つけ、意味ある一瞬を切り取り、時間を閉じこめた絵」(叶さん)にして、画文集「ふとふり返ると」(徳間書店)に結実させた。

 激務が重なり、肺に穴が開いて縮む自然気胸などで入退院を繰り返した。「耳をすませば」を作っていたころ、「笑い話は勘弁して」と話した。笑うと、せきが止まらなくなるからだ。膨らんだ内なる世界を表現するために働くほど、体はむしばまれる。そんな近藤を支えたのは「絵にする市井の人たちだった」と、最初のプロダクション以来の友人で自宅近くに住むアニメ監督の有原誠治さん(58)は語る。

 97年12月16日、出勤前に突然、苦しみだして解離性大動脈瘤(りゅう)で入院。「もっと描きたい」と語っていたが、手術後は話ができなくなった。浩子さんが「楽しいこと考えようね」と語りかけると、うなずいていた。翌98年1月21日の早朝、死亡。47歳だった。

♪  ♪  ♪

 浩子さんにとっては、11歳若く、いつも退院して帰ってきたので、「死ぬとは考えていなかった」。「机に向かっている」ような気がして、死はひとごとだった。カントリー・ロードが流れるなか出棺。浩子さんの記憶は以降、途切れ、この8年間、時は止まったままの状態だ。近藤の死は今も、納得できないでいる。

 「耳をすませば」は今も若者たちをひきつけ、心を動かす。浩子さんには、子どもたちへ、宮崎さんや鈴木さん、近藤の語りかけが続いているような気がしてならない。

 「耳をすまして、心の声を聞き、人生を輝かせて」と。





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この道 ふるさとへ続いても
僕は 行かないさ 行けない 

明日は いつもの僕さ
帰りたい 帰れない さよなら 
by ayu_cafe | 2010-06-05 16:58 | ayuCafeジブリ詩集 | Trackback | Comments(6)
Commented by ayamlin at 2010-06-06 20:59 x
耳をすませば。私も大好きだったよ。
映画の中で、コンクリーロードってもじって歌ってたよね。
この映画は少女漫画のリボンって漫画の漫画家が書いた作品が
原作なのよねー。
大人になってからは漫画は読まなくなったけど、小学生や中学生の頃、
リボン読んでたなあー。その作者はその頃売れていた作家でなつかしい。
Commented by ayu_cafe at 2010-06-07 07:03
ayaさん、ありがとね。へー、そうなんだ、リボンの売れっ子作家さんなんだね、原作は。
じゃあ、宮崎さんもリボン読んでたのかな。。
わたしは、子供のころ、あんまり漫画って
読んでなくて、むしろ今の方が読んでる(笑)
けっこういろいろ大人になってからだね、
漫画もゲームも恋も(ごめんなさい)
Commented by ayamlin at 2010-06-07 21:06 x
おー私と真逆だ~。おもしろいねー。
私は漫画は十代かなあ。ゲームは二十代。
どちらも今はまったくしない。
宮崎アニメとかの映画はまた別ね。
あと、テレビでドラゴンボールは見るけど、漫画は読まないなあ。
恋も若い時のほうがしたなあ(笑)
Commented by ayu_cafe at 2010-06-08 01:30
あやさん、恋はしっぱなしですね、僭越ながら☆
ある小説家さんは、恋は語るものではなく、育むものだ、といってたけど、そういう意味では
育みっぱなしですね(ごめんなさい)

マンガ、大人になってわかるのあるよ!海街ダイアリーなんて
チョーおすすめ!
Commented by ayamlin at 2010-06-08 23:12 x
あはは。
今日アップされてたの見て、このコメント納得。
すごい恋してるんだね。
好きでしょうがない。みんな見てみて、僕この子と会ったんだよって
声がよく聞こえてきたよ(笑)
ごちそうさま~*
Commented by ayu_cafe at 2010-06-09 10:00
あやさん、ははは。そうだね、ゆきさんのブログは、一日で万単位のアクセスがあるらしいけど、
みんなそうなんだと思う。わたしもそのうちのひとり。
ちょっと驚く作品みたい。だから見とれる、って
感じかね。
ポルトガルの風景や好きな画家の絵をたくさんアップするみたいに、
アップしてしまった。
ちなみに今朝は、あさばらに見とれたよ。