クマは気づいた。そうか、白紙に描いた知らない町の地図、基地にみたてた押入れ、指輪にみたてたシロツメグサ。実際の町より基地より指輪より、みたてることが好きなんだ。居場所を追われた異教徒が洞窟に十字を刻んで祈るように。その祈りが好きなんだ。うつろいや批判の只中で祈りの純度を上げよう。
山梨の山の麓、果樹園の中で育った。桃、巨峰、デラウエア、ロザリオ、さくらんぼ。夏休みは桃の果樹園の中の細い農道を町営プールに通った。びしょ濡れになるから自転車を停め両側のスプリンクラーのタイミングを図る。落ちた果実の濃厚な匂い、降るような蝉時雨。記憶はいつも息苦しい。
パリの夜、タクシーから階段が見えた。モンマルトルの近く。ふとなつかしいと思った。その後山梨のいなかに帰った時、なつかしいと思わないわけない、とわかった。小さい頃から当たり前のようにあった、叔父が若い頃に描いたユトリロの模写。それを見て育った。翌年行ってみた。いや、帰った。
キツネは思った。よく晩年はとか死に方がとか憐れんで言う。でも幸せに死んでも結局残るのは美しい骨だけ。この生という話は死に向かうハッピーエンドではない話だ。でもさ、ハッピーエンドの映画ってしらけないか?結末なんてなんでもいい。世界が新しく輝くような、胸がつぶれるような恋を今しよう。
モデルさんを撮るなら、善悪を越えたものを撮りたい。気安くわかりあえなくて、いきものの気配がして、無闇に生きよう、と思えるものを撮りたい。崇高で勝手で気高く狂おしい、いまここにしかない美しいいのちを撮りたい。なにも届かないこの絶望のすべてで。